パルパルはお城(舘:たち)の跡
今日の舘山寺周辺は、温泉地と遊園地と動物園・植物園で有名ですが、ここは、徳川幕府高家「大沢家」が500年にわたって知行していた領地でした。
舘山寺パルパルは、元々は徳川幕府の高家筆頭「大沢氏」の居城「堀江城」の跡地に建てられた遊園地だといわれています。大沢氏は南北朝時代に丹波篠山の大沢村を領した堂上公家持明院家(藤原道長の子頼宗を祖とする)の庶流にあたり、貞治年間(1362~68)に遠江国敷智郡堀江城主となった中将基秀以後、明治維新まで約500年もの間、この地のお殿様でした。舘山寺とは舘(たち)のある山のお寺という意味です。
高家というのは、禄高は低いものの朝廷の儀礼・公家の有職故実にも詳しく、官位は有力大名に並ぶもので、赤穂浪士で有名な吉良上野介もやはり足利氏出身の名門で、高家の職に就いていました。最初に高家になった大沢基宿の母は、木寺宮家(大覚寺統の嫡流、入野の地に在住)のお姫様といわれています。
大沢家の最後のお殿様は、右京太夫の大沢基寿という方で、和宮内親王さま降嫁の付き添い役とて大行列に同行され、将軍家上洛の際には朝廷側の公家との折衝にあたり、徳川慶喜の大政奉還の上奉文を伝奏する役目を果たれました。そして、当然のことながら、庄内の御家来衆の人々も多くの役割を担わせれて、大変苦労されたようです。
出世城といわれ、何人ものお殿様が入れ替わった浜松とは違って、500年もの間に培われた、領主と家臣・領民の信頼関係に深い絆があったのでしょう。
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舘山寺は、元々は弘法大師ゆかりの真言宗のお寺で、室町から江戸時代までは堀江城主「大沢家」の祈願所として栄えていましたが、明治の廃仏稀釈で廃寺とされた後、秋葉山の支援をうけ、現在は曹洞宗のお寺になっています。
もとは、真言宗のお寺だったので、本尊は「虚空菩薩」とのことです。
明治初期に 一時廃寺となるが、秋葉山の支援を得て 曹洞宗のお寺として再興。
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神仏習合の名残りなのでしょうか?舘山寺のすぐ隣りには愛宕神社があります。主祭神は「火之迦具土の神」。
山の中腹には、穴大師という宕(いわや)があって、中に弘法大師さまの像があり、ここで願掛けをすると、眼病がよくなるようです。
裏山に登ってみると、岩山の頂に観音さまのお像がお立ちになられていますが、こちらは昭和10年に建立とのことです。まるで、古代の磐座(いわくら)の上にお立ちになっていらっしゃるようです。
穴地蔵は、海難にあわれた方を村人が供養するためにもうけられたもので、今は 大草山にある弁天様も 以前は舘山寺にあったようです。
舘山にはいたる所に多くの奇岩があり、水辺には赤いチャートの石が敷き積もっています。個人的な感想でいうと、これらの岩石はもともとは宗教的な信仰の対象で、舘山全体が磐座(いわくら)だったように思えます。
岩の中には、富士見岩とか、西行岩とか、船岩とか、きがん岩などと、名付けられている岩もあります。
・・・・舘山の 巌の松の 苔むしろ都なりせは 君も来て 見む ・・・・
西行法師の和歌
舘山寺は、中央構造線上にあり、赤いチャート(硬度の高い堆積岩)が広く分布しています。チャートに硬い金属などを 強く打ち付けると 火花が飛び、昔は火打石の材料になったようで、赤石山脈の「赤石」という名称は、この地方のチャートの赤い色に由来するそうです。
遠州のこの地方には古代の磐座や中世の寺社を中心とした宗教施設や遺跡が多くあります。さしずめ、現代のパワースポットということでしょうか。磐の赤の色は、火之迦具土の神の血の色です。
「引佐細江」は、遠江の歌枕。
「とほつあふみ いなさほそえのみをつくし あれをたのめてあさましものを」
(万葉集・巻14・譬喩歌・3448番歌・遠江国歌)
「澪つくし」は、海上の標識のことで、「身を尽くし」の掛詞。旧細江町の町章のデザイン。
舘山寺・堀江城は交通の要衝。一旦、事があれば「城」としての機能も発揮し、徳川軍の遠江進攻に最後まで抵抗したお城でもありました。
舘山寺は、いろいろな歴史が折り重なった不思議な空間です。
庄内の「宿蘆寺」というお寺には、今でも大沢家の歴代のお殿様のお墓があり、立派な供養塔(五輪塔・宝篋印塔)が建っています。