時宗・教興寺のなぞ

 教興寺は、かつては伝馬町の交差点近くにあり、昭和39年に都市計画により中沢町に移転しました。近所には 賀茂真淵で有名な五社・諏訪神社もあります。

時宗・教興寺のなぞ

 まる(青) 先日、知り合い法事で中沢の市営霊園を訪問したところ、ふと駐車場の横を見上げると時宗・教興寺の看板が目に入りびっくりしました。それまで、浜松に「時宗」のお寺があるとは思ってもていなかったからです。
時宗・教興寺のなぞ 

 まる(青) 記録によれば、徳川家康も教興寺で連歌会を催したことがあるそうですし、当時は 東海道の本陣に近かったために、朝鮮使節や茶壷道中の一行の宿舎となり、城主が接待を務めたと伝わっています。

時宗・教興寺のなぞ


時宗・教興寺のなぞ まる(青) 時宗は、一遍上人がはじめられたとされる浄土宗の一派で、念仏踊りの遊行をしながら阿弥陀さまの功徳を全国にひろめられました。時衆の人々が遠州大念仏などの民俗芸能にかかわっていたことは想像に難くありません。
 室町から江戸時代にかけては、幕府・大名の同朋衆を輩出し、能・狂言・連歌・立花・作庭・物語・香・茶湯・絵画などの文化事業に携わっていました。いわゆる世阿弥や木阿弥のように阿弥号をもつ人々が、この一派に属していたといわれています。
 室町幕府の中枢に近かった吉良、今川、斯波、大河内、飯尾、浜名などの諸氏が興亡したこの地にはその影響が及んでいたものと思われます。
 教興寺にしろ、新豊院にしろ、この地方の特色ある文化を彩った寺院が 浜松の中心地から無くなってしまったことは いま思えば残念なことで、浜松中心街の空洞化は この時に始まったのではないのでしょうか。
 浜松には、貴人から賤民にいたるまで、様々な祭事、芸能、風習があったようです。街を歩いていると、箏(こと)、尺八、三味線などの教室の看板ををたまに見かけるのだけれど、案外、楽器の街〈浜松〉のルーツもこのあたりにあったような気がします。


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 仏種山教興寺:延長元年(九二三)、天台宗の道場「智徳院」として開設。弘安六年(一二八三)、一遍上人が全国を遊行中に、当院に滞在。その後、時衆の道場となり、室町の中期に浜松宿の十王町(伝馬町)に移転。現在の所在地は中沢町42-1。


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