浜松市の舘山寺総合公園の東側に式内社の
曾許乃御立(そこのみたち)神社という神社があり、地図によっては鹿島神社になっているので見つけるのに手間取ることがあるようです。
祭神:武甕槌命 所在地:浜松市呉松町3586(鹿島原)
曾許乃御立(そこのみたち)神社という神社名は 不可思議な名称で、いくつもの説を唱えられています。
① 立(たち)は、古語の舘(たち)の意味で、舘山が近くにあることから、上古には地方の有力豪族のお屋敷があり、後に神社として改修されたという説。
② 立(たち)は、「鹿島立ち」とおなじく、発(たち)の意味で、この地が都田や井伊谷の人々とっては、都などに向かう旅の出発地(船出の地)であり、旅の安全を祈願した社があったとされます。
③ 立(たち)は、出雲の国譲り神話からとったという説。「
武甕槌命が 出雲国伊那佐の小濱に降り至って、十掬剣(とつかのつるぎ)を抜いて逆さまに立て・・・・云々」という有名なストーリーに見立てています。ここ遠江の
浜名の湖の北岸に「引佐」という地名が残り、赤石山脈の向こう側には
建御名方の神が居ます
諏訪の湖があるからです。 この場合、立っているものは、
太刀(十束剣 ”天之尾羽張”)ということになります。
④
曾許乃御立(そこのみたち)神社とは、日本書紀にあるように、国常立尊(くにのとこたちのみこと)の別名、
国底立尊(くにのそこたちのみこと)のことだという説です。国常立尊は、天地開闢の頃、最初に現れた神様で、湖沼の水面に立ち現れた
葦の芽(蕾)のことらしいのです。インド風な表現を借りれば、
原始のハスとういことになります。
⑤
澪つくし(澪標、水脈つ串)のことを表しているという説。細江に居た津守が、水上交通の祈願のため、澪標を神格化して奉祭していたという説です。この場合の「曾許」は、浅瀬の
水の底のことで、立っているものは、
標識をつけた串(柱)ということになります。ちなみに、万葉の時代から「引佐細江の澪標」は、
遠江の歌枕として有名で、
澪標は旧細江町の町章でもありました。
遠江(とおつおうみ)引佐(いなさ)細江のみをつくし吾をたのめてあさましものを
(万葉集40巻の3429 作者不明)
いずれにしても、御船祭が残る鹿島神宮と同様に、水運となんだかの関係をもちつつ 千年以上も古い時代から、土地の人々は その時代の世相に応じつつ、神社を守り続けてきたのでしょう。
曾許乃御立(そこのみたち)神社由来書には、次のように記されています。
「創建、神護景雲元年六月二十一日。武甕槌命、常陸国を出て遠江国過る時、根本山に憩い賜ふ。時の人、瞻仰(あおぎみて)慕いて止まず、社殿を建立す。」
つまり、神聖な神の使いである白鹿に乗られた武甕槌命が、常陸国鹿島神宮から大和国春日の地に行幸される途中に 当地に立ち寄られたという伝承が古くからあったということです。
神護景雲元年(767年)という年は、唐の安史の乱から4年、恵美押勝の乱からは3年を経た年で、例の太政大臣禅師「弓削道鏡」に法王の称号が授けられた翌年にあたり、皇位をめぐって朝廷内で不穏な空気が充満いる最中で、このような時に、国家平定の武神である武甕槌命をわざわざ常陸国より勧請するということは、かなり政治的な動機によるものと思われます。「鹿島立ち」で有名な鹿島神宮とは、防人たちの旅立ちの祈願所であり、集結地でもあったからです。
曾許乃御立神社とは、鹿島神宮と春日大社を結ぶ中継点のひとつだったということで、古代の藤原氏(中臣氏)と物部氏や春日氏などとの関係が垣間見られる神社なのです。
浜松にも春日神社や鹿島神社がいくつかありますが、そのルーツを考えてみるのも面白いでしょう。春日大社が藤原氏の氏神になるよりも古い神社がみつかる可能性があります。
常陸の鹿島神宮にも、鹿島の七不思議のひとつでもある「御手洗池」という霊泉(れいせん)があり、いにしえより 旱魃にも絶えることもなく、水位も一定だということです。
水源の管理権は、その地域での支配的地位を保持する上で決定的な要素であり、古社の多くには、泉や池や井戸の傍に建てられたようです。
動植物園だけでは いまいちで、今の時代は ローカルでディープなものが見直されつつあります。舘山寺総合公園も、奈良公園のように寺社と一体化して、鹿を放したり、古民家などの古い茅葺屋根の建物などを移築してみてはどうでしょか??
・・・・この付近は琉球藺で織られた遠州表の特産地でもあったし、歴史的にも有形無形の文化財もたくさんあるのだから・・・